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私の野球履歴書-1/1-1 |
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野球好きだった父が、幼い私にキャッチボールを教えてくれたのが野球との初めての出会いでした。 小学校四年生の時に、少年野球チームに入部。最初のポジションは、意外かもしれませんが、兵庫県の私立三田学園中学、同高校の1年生までずっとキャッチャーでした。 その後、高校に入学して間もなく足の速さと肩の強さを捕手で埋もれさせるのはもったいないと外野手へ転向させられました。(実はキャッチャーとしてはあまりに気が強すぎて先輩ピッチャーにどなりつける姿を見た監督が外野に転向させたと後で知ったのですが) 以後巨人を引退する迄ずっと外野手かと思えばさにあらず。 高校3年は1学年下のエースがヘルニアの為退部。そして一番肩の強かった私に白羽の矢がさされたのです。というわけで高校3年の夏の予選大会では、東洋大姫路高校のエース投手の松本投手と共に県下では左の松本、右の屋鋪と騒がれたものです。ちょっと自慢し過ぎかな。 (松本投手=1977年全国高等学校夏の甲子園大会で優勝投手となり後に阪急ブレーブスドラフトに1位で指命) しかし所詮急場仕立てのピッチャーですから、投げ込みがたたり、肘、肩ボロボロで3回戦敗退。甲子園出場の夢は断たれたのでした。 そして、その年のドラフト会議で横浜大洋ホエールズに6位指名入団(投手としてではなく外野手として)。 晴れて、プロ野球選手となったわけです。 |